【インタビュー】クリスティアン一色:「神戸にプロサッカーチームを」…ヴィッセル神戸発足のルーツとなったチリ料理店

 クリスティアン一色がオーナーを務めるチリ料理店「Gran Micaela y Dago (グラン ミカエラ イ ダゴ)」は、ペレやディエゴ・マラドーナ、フランツ・ベッケンバウアーといった名立たるスターが来店したこともあるなど、サッカーと深い関わりを持っている。複数のJクラブで通訳業を歴任した同氏が、ヴィッセル神戸誕生にまつわる思い出を語った。

インタビュー・写真=福元順哉

「神戸にもプロサッカーチームをつくろう!」

 1993年にJリーグが開幕した時、神戸にはまだプロサッカーチームがありませんでした。テレビ中継などを通じてJリーグの盛り上がりを感じるなかで、ある時、うちの親父(ダゴベルト・メリリャン・ハラさん)がこう言ったのです。

「何でプロフェッショナルリーグができたのに、神戸にはプロサッカーチームがないんだ! 神戸にも応援できるチームがほしい!」

 当時、親父がオーナーを務めていたチリ料理店『Gran Micaela y Dago (グラン ミカエラ イ ダゴ)』は、兵庫県サッカー協会の方やサッカーコーチなど、サッカーに携わる方が多くいらっしゃる場所でした。そこで、そのお客さんたちと「プロサッカーチームをつくろう!」という話になり、1993年12月に『神戸にプロサッカーチームをつくる市民の会(通称:オーレKOBE)』という市民団体を立ち上げたのです。うちのお店が『オーレKOBE』の事務所となりました。

 うちのお店は飲食店ですが、チリへ物資を送るボランティア活動もしています。物資は、例えば消防車や救急車、病院のベッドなど。そういったボランティア活動を通じて神戸市と関わりがあったために、神戸市長にも来店していただいたことがありました。そのつながりから、『オーレ KOBE』の活動に対して神戸市からも「ぜひ、サッカーで神戸を盛り上げてほしい」とお墨付きをいただき、活動の勢いは加速していきました。すぐさま署名活動に取り組むと、23万8千人余りの署名が集まり、神戸市へ提出。こうして“市民の声”としてのエビデンスができたことにより、神戸市も本格的に動き始めました。

 では、どうやってプロサッカーチームをつくるのか? ゼロからつくるのではなく、すでに存在しているチームをプロ化させるほうが話は早く進みます。当時(1993年)は、関西社会人リーグやJFLに所属する神戸のチームがなかったため、すでにJFLに所属しているチームの活動拠点を神戸に移してもらい、Jリーグ加入の準加盟申請をする、そしてJリーグへ昇格する、という流れが一番早い段取りだと考えました。

 いくつかの候補チームがあったなかで、誘致の話を具体的に進めることができたのが、岡山県倉敷市で活動していた川崎製鉄株式会社サッカー部でした。川崎製鉄の本社は神戸にありますし、川崎重工の関連会社ということもあり、誘致活動は順調に進みました。

 チーム名は投書箱を作って募集し、英語の勝利「VICTORY」と船「VESSEL」を合わせた造語である “ヴィッセル”と名付けました。それから有志の中でチームカラーやエンブレムも考えたりしてね。そんなこともうちのお店でやってきたんです。そして、ダイエーがメインスポンサーとなって1994年(6月30日)に『株式会社神戸オレンジサッカークラブ』が設立され、1995年、正式にJリーグを目指すと宣言しました。

震災をきっかけに留学を断念し、通訳の道へ

 僕自身の話をすると、1993年から1994年の初め頃までは『オーレKOBE』の活動に参加していました。その後、1994年5月からスペインに留学(大学4年時)していて、1995年にはイギリスの大学院へ進学する予定でした。留学前の1月11日に一時帰国し、奨学金の面接を受けるための準備をしながら過ごしていたところ、“あの日”がやってきたんです。

 1月17日。

 まだ時差ボケが残っているなかで寝ていたら、激しい揺れに襲われました。阪神淡路大震災です。当時のお店は今とは別の場所にあり、1階がレストラン、2階が自宅になっている一軒家でしたが、屋根が落ち、全壊してしまいました。

 そんな状況ですから、当然、「イギリスへ行って勉強する」とか言うてる場合ではありません。お店は半年間休業した後に、7月から場所を変えてようやく営業再開することができましたが、あの頃は大変でした。

 当初、僕は留学するつもりでいましたから、就職活動はしていませんでした。「何か仕事をせなあかん」と思っていた矢先、ヴィッセルから急にオファーが届きました。「実は、ヴィッセルの監督が決まったんだけど、まだ通訳が決まっていないから、やらないか?」と。僕はすぐさま「やりますわ!」と答え、通訳として働くことを決めました。

 一方のヴィッセルはと言うと、川鉄の選手たちに加え、他のチームから加入したプロ選手も合流し、初めてチーム全体で自主練習をしようとしていた日が、まさに1月17日。震災でみんな被災し、神戸では練習ができない状態になってしまっていました。ヴィッセルは一旦、活動拠点を岡山へ移し、僕も同年2月から岡山に行ってチームに合流しました。

 ヴィッセルでは4年間お世話になりました。1999年になると、川勝(良一)さんが監督に就任し、チームの外国人枠は韓国人が主体となって英語・スペイン語の通訳業務は不要となったため、ヴィッセルを離れました。すると、今度はセレッソ大阪の監督にベルギー人のレネ・デザイエレが就任し、英語の通訳を探していたため、引き受けることにしました。当時の選手で思い出すのは、西澤明訓や堀池巧、横山貴之ですね。ヨコ(横山)とはのちにエスパルスで、僕はヤン・ヨンソン監督の通訳として、彼は育成部のスタッフとして20年ぶりに再会することとなります。

17年の時を経て監督通訳に“復帰”

 セレッソとの契約は1年で満了に。翌2000年は、関西エリアのクラブで通訳の業務がありませんでした。関東に行けば仕事はあったのですが、前年に双子が生まれたばかりで、妻は山口県出身という事情もあり、通訳業は一旦、休むことにしました。やっぱり、生まれたばかりの双子を連れて全く知らない土地に行くのは不安でしたし、妻を残して僕だけ単身赴任するわけにもいかなかったので、ね。

 その後、家業を引き継ぎながら、スポットでの通訳業務は何度か引き受けました。2002年の日韓ワールドカップの時は、日本サッカー協会からの依頼でFIFA担当者のアシスタントと通訳の業務を兼任しました。その他、ヴィッセルのスポット通訳や警察通訳、スポーツイベントの通訳を務めたりもしましたよ。クラブの監督通訳に“復帰”したのは、それから17年後の2017シーズン(サンフレッチェ広島)のこととなります。

 これからもスポーツ業界発展のために貢献していければと思っていますし、ヴィッセルのルーツとなっているこの店も、大事にしていきたいですね。

クリスティアン メリリャン一色
1972年8月9日生まれ、兵庫県出身。小学生時代に地元の神戸FCでサッカーを始める。チリ人の父親と日本人の母親を持ち、スペイン語・英語が堪能。これまでヴィッセル神戸、セレッソ大阪、サンフレッチェ広島、清水エスパルスにて監督通訳を歴任したほか、警察通訳や各種スポーツイベントの通訳を務めた経験もある。現在は神戸市に構えるチリ料理店を経営。


Gran Micaela y Dago (グラン ミカエラ イ ダゴ)
クリスティアン一色さんの父、ダゴベルト・メリリャン・ハラさんと母の満子さんが1974年に創業したチリ料理専門店。2000年よりクリスティアンさんが二代目としてオーナーを務める。南米チリの家庭料理や伝統料理を楽しめるだけでなく、過去にはペレやディエゴ・マラドーナなどの著名人が来店したこともあることなどから、多くのサッカーファンに親しまれている。
〒650-0004
神戸市中央区中山手通2丁目13-8 エール山手2F
ホームページ:https://www.granmicaelaydago.com/