【インタビュー】クリスティアン一色:チリ料理店を休業し、通訳としてヤン・ヨンソンを支えた日々

「通訳として広島に来れないか?」。電話越しに懐かしい声がした。2017年、実家のチリ料理店でオーナーを務めていたクリスティアン一色は、かつての“パートナー”であるヤン・ヨンソンの誘いを受け、再びサッカー界へと帰ってきた。日本をこよなく愛する指揮官とともに歩んだ日々は刺激的で、サッカーへの情熱にあふれていた。

インタビュー・写真=福元順哉

ヤナと出会いは1995年、公私ともに良い関係を築けた

――ティティ(クリスティアン一色)さん、お久しぶりです。昨シーズンのJ1最終節・清水エスパルスvsサガン鳥栖戦以来ですね。
ティティ あの時はエスパルスにとって残留が懸かった大一番だったから、居ても立っても居られなくてね。神戸から静岡まで行って、スタジアムで勝利と残留決定を見届けることができて良かった。昨シーズンの途中までチームメイトだったみんなの喜ぶ姿を見て、僕も同じよう喜んだし、うれしい気持ちになったよ。

――さて、まずはティティさんとヤナ(ヤン・ヨンソン)さんにまつわる思い出話を聞かせてください。
ティティ ヤナと出会ったのは1995年、ヴィッセル神戸が前身の川崎製鉄(株)水島サッカー部から改称した年で、当時はJFLに所属していました。ちょうど阪神淡路大震災が発生した年で、神戸にとっては大変な時期でしたね。そこへヤナが来て、トップチームのアシスタントコーチ兼サテライトチームの監督に就任することになりました。チームには通訳が僕一人しかおらず、僕もトップチームとサテライトチームを兼任していました。ヤナが率いたサテライトチームはビックリするぐらい快勝続きで、サテライトリーグの首位をひた走っていたことをよく覚えています。

――当時のヤナさんはまだ指導者としてのキャリアが浅かったと思いますが、ティティさんから見てどんな人物像でしたか?
ティティ ヤナにとっては「日本人を上手く指導する」ことが指導者としてのスタートだったんだよ。だから、今も変わらないけど、彼自身が一生懸命、日本語でコミュニケーションを取ろうとしていたし、そういう姿勢が受け入れられて、選手たちからはよく慕われていたと思います。

――なるほど。ヤナさんは1997シーズンまで3年間、神戸に在籍していましたね。
ティティ その間にJリーグ昇格も果たしたね。そういえば一時期、ヤナが現役に復帰したこともあった。トップチームの成績が良くなかった時、スチュアート・バクスター監督(当時)が「ヤナ、ちょっと現役に復帰しろ! プレーイングコーチとしてプレーしながら指導もしてくれ!」と言ってね。プレーイングコーチなんて大変だっただろうけど、ヤナは器用にこなしていました。当時彼はまだ30代で、彼も僕も独身だったから、プライベートでも一緒に過ごす時間が長かった。その頃から良い仕事仲間であり、公私ともに良い関係を築けていたかなと思います。

ある日突然、知らない番号から電話が掛かってきた

――その後、再会を果たしたのは2017シーズンですか?
ティティ そう。僕はサッカー界から少し離れて家業のレストランを継いでいたんだけど、ある日突然、知らない番号から電話が掛かってきてね。出てみたら「サンフレッチェ広島の織田(秀和)です」って、社長(当時)からの電話だったんだよ。「えっ!どういうこと!?」と思ったけど、スポーツ新聞などの報道で広島がヤナに声を掛けていることは知っていたから、ひょっとしたら……と思ってね。それで社長からヤナに電話を代わって直接話すことになったんだけど、「通訳として広島に来れないか?」と誘われて。でも、すぐに「行く」とは言えなかった。家のことも、レストランのこともあったから、「僕一人では決められないから、家族と相談させてほしい」と一旦、保留にしました。

――やはりヤナさんは、日本で仕事をするならティティさんと一緒に、という思いがあったのではないでしょうか。
ティティ どうだろう。でも、やっぱり外国人が日本で仕事をする、それも監督という責任重大な職業となったら、自分のことを知っている人が身近にいた方が安心できるだろうからね。日本人が海外で仕事をする時もそうだろうけど。僕自身もそうやってヤナが頼ってきてくれたことは純粋にうれしかったし、ヤナの力になりたいと思った。それで家族に相談してみたら、「良いんじゃない!せっかくの話だし!」って(笑)。拍子抜けするぐらい僕の背中を押してくれて、広島に行くことになった。シーズン途中からの就任だったけど、何とかノルマだったJ1残留を達成できてホッとしました。

――翌シーズンからヤナさんは清水エスパルスの監督に、ティティさんも通訳として静岡へ来ることになりました。
ティティ 広島との契約が終わったところで、ヤナとしても久々の日本でまだやり残した感というか、「もっと自分の力を発揮したい」という気持ちが強かったと思います。僕も彼の気持ちは理解できたし、引き続き彼の力になりたいと思って、一緒に清水へ行く決意をしました。一方で、その裏ではレストランをずっと休業しなければならず、家族にはいろいろと大変な思いをさせてしまいました。僕自身、心苦しい部分もありましたが、家族の理解があって通訳業を続けることができました。

――2018シーズンはリーグ戦8位と近年のエスパルスの中では良い成績を残しましたが、昨シーズンは開幕序盤から非常に厳しい戦いとなりました。
ティティ なかなか苦しかったですね。そんな状況でも、ヤナはすごくポジティブでした。例えば、ケガや病気、出場停止などで起用できない選手がいても、「それは仕方がない」と言って、すぐに次の手立てを考える人なんです。現有戦力で様々な策を打ってトライしたけど、思うように勝ち点を積み上げることができなかったのは残念でした。5月にヤナが退任することとなったタイミングで、僕も家業に戻りました。

間違っても僕が勝手に言い換えてはダメ

――ヤナさんの通訳を務める上で苦労したことなどがあれば聞かせてください。
ティティ 彼は勉強熱心で、日本語を使いたがる人ですから、インタビューの中でもよく日本語を交えて話していましたよね。あれって、ファン・サポーターの皆さんにとっては親近感があって良いと思うんですけど、実は通訳の立場からするとすごく難しいんですよ(苦笑)。例えば試合の感想を聞かれた時に、英語でバーっと答えてる中で、ふと「だんだん良くなりました」と日本語を入れてくる。で、その後はまた英語でバーっと話す。僕としては、「だんだん良くなりました」というフレーズを残しながら、前後の言葉とのつながりに違和感がないよう訳さなければいけない。

――多少、日本語を話せる監督や選手はいても、ヤナさんほどインタビュー時に交えてくる人はなかなかいない気がします(笑)
ティティ ヤナが使うのは簡単な日本語だから、それに合わせると僕の訳も簡単な言葉になってしまうんだよ。例えば、ヤナは「良かったです」とよく言うんだけど、本当なら前後の文と合わせて「今日の攻撃は上手くできました」と訳したい時も、「今日の攻撃は良かったです」と訳さなければいけない。だって、「良かったです」というフレーズは記者の方々も聞き取れているのだから、間違っても僕が「上手くできました」なんて勝手に言い換えてはダメでしょう? これはヤナの通訳ならではの苦労であり、毎回プレッシャーを感じながら訳していましたね(笑)

――最後に、静岡・清水のサッカーファンの方へメッセージをお願いします。
ティティ エスパルスサポーターの方々がつくり出すスタジアムの雰囲気は毎試合素晴らしくて、あの光景を見るたびに「ホームで負けないチームになってもらいたい」と感じていました。僕が在籍していた中では、5回あった“静岡ダービー”で一度しか負けなかったこと(3勝1分1敗)が良い思い出の一つ。良い時も悪い時も、いつも温かい応援をしてくれたことに感謝しています。それから、スタジアムや練習場だけでなく、街で出会ったサポーターの方々もすごく優しく接してくれたので、静岡の街自体を気に入っていました。これからも“サッカー王国”としての誇りを持って強いチームを目指し続けてほしいですし、他のチームにとって手強い相手であり続けてほしいと願っています。

クリスティアン メリリャン一色
1972年8月9日生まれ、兵庫県出身。小学生時代に地元の神戸FCでサッカーを始める。チリ人の父親と日本人の母親を持ち、スペイン語・英語が堪能。これまでヴィッセル神戸、セレッソ大阪、サンフレッチェ広島、清水エスパルスにて監督通訳を歴任したほか、警察通訳や各種スポーツイベントの通訳を務めた経験もある。現在は神戸市に構えるチリ料理店を経営。


Gran Micaela y Dago (グラン ミカエラ イ ダゴ)
クリスティアン一色さんの父、ダゴベルト・メリリャン・ハラさんと母の満子さんが1974年に創業したチリ料理専門店。2000年よりクリスティアンさんが二代目としてオーナーを務める。南米チリの家庭料理や伝統料理を楽しめるだけでなく、過去にはペレやディエゴ・マラドーナなどの著名人が来店したこともあることなどから、多くのサッカーファンに親しまれている。
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