【インタビュー】天野友心(同志社大):「アイスタで梅田透吾に勝つ」清水アカデミーで6年間切磋琢磨した男の誓い

 2016シーズン、清水エスパルスアカデミー史上初めてジュニアユースからユースに2人のGKが昇格した。梅田透吾と天野友心。6年間ハイレベルなポジション争いを繰り広げた彼らの明暗は分かれ、梅田はプロの世界へ、天野は同志社大へと進学した。「梅田に匹敵する」と高い評価を得ながら挫折を味わった天野の心には今も、「リベンジ」への意欲が燃えたぎっている。(※取材はビデオ通話にて実施しました)

“念ずれば叶う”

 天野友心は純粋な心で、真っ直ぐにサッカーと向き合ってきた。

 地元・藤枝市の青島サッカースポーツ少年団に所属していた頃、天野にはエスパルスとの接点がいくつかあった。一つは、3歳上の兄がエスパルスのスクールジュニアユースチーム(SS藤枝)に所属していたこと。二つ目は、少年団のOBである河井陽介がエスパルスに加入し、藤枝出身のヒーローとしてJリーグの舞台に立つ姿を見てきたこと。

 そしてもう一つ。天野は“運命”のように感じていたことがあった。天野が小学生の頃、エスパルスで活躍していたGK山本海人(現ロアッソ熊本)は、偶然にも同じ7月10日生まれ。少年団と両立しながらエスパルスの藤枝スクールにも通っていた天野は、アカデミー出身の山本の姿に自分の未来を重ねていた。

 少年団ではGKを務め、藤枝スクールではスピードとパワーを活かしたゴリゴリ系のフィールドプレーヤーとして躍動し、“二刀流”を極めていた天野だが、本命のポジションは「GK」だと決めていた。ある時、藤枝スクールの活動で三保グラウンドを訪れると、天野は思い切って山本に話し掛けた。

「僕も7月10日生まれでGKをやっていて、山本選手みたいになりたいです!」

 無邪気に夢を語る天野少年。すると山本は「頑張れよ!」と優しい声でエールを送ってくれた。憧れの選手の言葉に熱い想いがこみ上げてきた。

 エスパルスが天野に夢を与えてくれた。

 だが、大きな試練を経たのもまた、エスパルスだった。

 ジュニアユース、ユースと順調にステップアップを果たした天野の隣には、たった一つのポジションを争う同期の梅田透吾がいた。ジュニアユース加入当初こそ「恐怖心はなかった」とライバルとして眼中にも入れていなかった彼は、いつしか互いを高め合う同志となり、ついには天野の先を越してプロ入りを果たした。

 闘志を全面に出しながらガムシャラに夢を追う天野は、6年間、切磋琢磨し続けた梅田の成長をどのように見つめていたのか。そして、3年後のプロ入りを目指して大学サッカーで奮闘する今、何を思うのか――。

もしあの時、「1人がいい」と答えていれば……

――梅田選手の第一印象は覚えていますか?
天野 初めて会ったのは小学生の時、県トレセンの選考会でした。でも、その時はGKが5人選ばれていたので、とくに透吾の印象はなくて。エスパルスジュニアユースのセレクションで自分と透吾が受かったと聞いた時は、「へぇ、透吾か」という感じでした(笑)。正直なことを言うと、僕から見て、透吾よりも上手いと思った選手が他にいました。それに、その頃の僕は東海トレセンに選ばれたりして自信を持っていたので、透吾に対する恐怖心はなかったんです。

透吾は当時からキャッチがすごく上手くて、練習の中でも安定していました。一方の僕は、ボロボロとファンブルしてばかりで、細かな技術で見れば透吾に劣っていたかもしれない。だけど、それぐらいの年代だとパワーや身体の大きさだけで通用してしまう部分があって、僕は2年生になると1学年上のチームでプレーさせてもらえるようになり、チーム内の序列では透吾よりも“上”の立ち位置にいるなと感じていました。

――梅田選手をライバルとして意識するようになったのはいつ頃からですか?
天野 透吾に対する意識が変わったのは、中学2年の秋頃から。『Jリーグ U-14 東海ボルケーノ』というリーグ戦に僕が出るはずだったのですが、ウォーミングアップ中にケガをしてしまい、急遽、透吾が出ることになりました。透吾は、僕が1学年上の代の試合に出ている間、ずっと自分たちの代で試合に出ていたので、当然、久保山(由清)監督(現ユースコーチ)やチームメイトからの信頼もある。それをきっかけにポジション争いが激しくなっていきました。

――中学生という年頃もあり、梅田選手に対して嫌な感情を抱いたりはしなかったですか?
天野 僕は、自分が出られない状況になると「何クソ!」って燃えるタイプなんですけど……正直なことを言うと、当時は透吾が試合で良いプレーをした時、他の選手と一緒に「ナイスキー!」って声は出しながらも、心の中では「(点を)決められてしまえばいいのに」と思ったこともありました(苦笑)

――ユースに昇格した後も、2人のライバル関係は続きました。
天野 実は、後悔していることが一つあって。中3の時、僕と透吾が一人ずつ久保山さんに呼び出され、「同学年で2人のGKをユースに昇格させるとしたら、どう思う?」と聞かれたんです。エスパルスアカデミーとしては初めてのことだったので、選手側の意見を聞いてくれたのだと思います。あの時、僕は咄嗟に「2人でも大丈夫です」と答えてしまった。結果論になりますけど、もしあの時、「1人がいい」って答えていれば、僕だけがユースに昇格して、そのままプロになれたかもしれない。逆に、透吾だけ昇格しても、僕は高校でサッカーを続けて他のクラブでプロになる可能性があったかもしれない。平岡(宏章/ユース監督、現トップチームコーチ)さんが、僕と透吾の実力は同じぐらいだと評価してくださっただけに、「あの時、違う答え方をしていたら……」と思ってしまいます。

――「2人でも大丈夫」と答えたのはなぜ?
天野 中3の最後の大会も2人とも出場させてもらったので、スタートラインは同じだと感じていました。ジュニアユースでの3年間では透吾に追いつかれたけど、ユースでの3年間で頑張れば、努力次第で透吾を引き離すことができるはずだと思って。あとは、純粋に透吾と一緒に練習することが楽しかったという理由もありました。

「やっぱり透吾には敵わない」と思い知った

――ユースに昇格後、高円宮杯U-18プレミアリーグEASTで先にベンチ入りを果たしたのは梅田選手でした。
天野 GKって最初に序列が決まると、それを覆すのがすごく大変で。僕が1年生の時は3年生の水谷駿介くんがレギュラーで、第2GKの座を2年生の(楠本)幸雄くん(現大阪体育大)と透吾と僕で争うような状況でした。それで開幕戦でのベンチ入りを目指していたんですけど、練習中に僕が横っ飛びしすぎて腰の皮膚を激しく擦ってしまったんです。そのケガのせいなのか、元々スタッフの中で決まっていたことなのかは分からないけど、僕は各クラブのGKが集まる「GK講習会」に行くように指示され、開幕戦のベンチには透吾が入った。僕は透吾よりも序列が“下”ということになりました。

――ただ、梅田選手がケガで離脱していた期間など、挽回のチャンスは何度かありました。
天野 2年生のクラブユース選手権は、直前のプレミアリーグで透吾が手首を骨折してしまい、僕が出場することになりました。まさに「チャンスだ!」と思ったのですが、ユースに入って初めての公式戦だったので、ものすごいプレッシャーを感じてしまって。「もし、自分のミスで滝(裕太)くんや(平墳)迅くんたち先輩の大会を終わらせてしまったら……」というマイナスな考えがプレーにも表れてしまい、良いプレーができないまま予選敗退してしまいました。その後、Jユースカップやプレミアリーグの終盤戦でも、透吾が離脱して出場機会が巡ってきたんですけど、意気込みより緊張が上回ってしまい、公式戦に対する良いイメージを持てないまま2年生のシーズンが終わりました。

――もっと強気なタイプだという印象を持っていたので、ちょっと意外です。
天野 もちろん、先輩たちは「オマエのせいで負けた」なんて言わないだろうとは思うんですけど、GKの職業病というか、ピッチ内外で人の心を読もうとしてしまうんです。普段から、相手のボールの持ち方や動き出しを見て、コンマ何秒の世界で勝負しているからですかね。ただ、掛川(誠)GKコーチには、「予測は立ててもいいけど、読むな」とよく言われていました。僕は、ボールが出る前から相手のプレーを読んで1歩目を踏み出してしまい、フェイントでかわされたり、逆サイドにシュートを打たれて反応が遅れてしまう癖があったんです。

――そういったメンタル面に関して、同じ掛川GKコーチの指導を受けていた梅田選手は、天野選手から見てどうでしたか?
天野 元々の性格もあると思うんですけど、透吾はあまり賭けに出ないタイプ。しっかりと状況を見て、ボールが出てから反応するイメージがあります。GKには2つのタイプがいると思っていて、僕みたいに闘志を全面に出して直感で動くタイプと、透吾みたいに冷静で淡々とプレーしながら止めちゃうタイプ。よく周りから言われていたのは、《僕と透吾を足して2で割った選手が理想的》って。試合中は、チームを熱く鼓舞することも、冷静に振る舞って周りを落ち着かせることも必要ですから。僕は、透吾の冷静さを羨ましく思って見習おうとしていたけど、やっぱり元の性格もあって、アイツほどの冷静さを持つことはできなかった。逆に透吾も、「オマエみたいなパワーや気持ちがあればなぁ」と言っていた記憶があります。

――お互い、自分にない部分を尊重しあっていたんですね。
天野 お互いに尊敬しつつ個性を大事にできたのは、アダウトGKコーチの存在が大きかったです。アダウトさんは、それぞれの特徴を考慮したメニューを組んでくれました。例えば、僕は「もうキツい!」ってぐらい追い込んで筋肉に疲労を与えた方が調子が上がりやすいタイプだったので、僕のメニューだけ増やしてくれたり、一方の透吾は、追い込み過ぎるとダメになっちゃうタイプなので、少なめのメニューだったり。そこまで個々を見分けてくださる指導者はアダウトさんが初めてだったので、彼の指導を受けられて良かったなと思っています。

――タイトルは逃したものの、2年生のプレミアリーグ終盤戦で優勝争いを経験できたのは大きかったのでは?
天野 青森山田高校戦(4-4で引き分け)なんか、本当に「黒歴史」と言っても過言ではないぐらい悔しかったですね。最後、自分がボールを取って大きく蹴り出していれば、逃げ切れたんじゃないかと……。あの試合ぐらいからかな、「やっぱり透吾には敵わない」と思い知ったのは。それからは、「じゃあ自分はどうしたら良いのか?」と別の方法を考えるようになりました。

――具体的には?
天野 例えば、プレミアリーグの遠征で前泊した時、夕食後に誰かが一発芸をしてチームの士気を高めるのが恒例なのですが、そこでみんなを笑わせようと全力で取り組んだり。クラブユース選手権の準決勝から帰ってきた時は、僕が齊藤聖七(現流通経済大)や佐野陸人(現法政大)、透吾などのマッサージを務めました。試合に出ていない身として、何か自分の存在意義を見出だせる方法はないかと考えて。

――立派なことだと思います。
天野 人としては良いのかもしれないけど、選手として考えたら、本当はこれじゃダメですよね(苦笑)。でも、そうやってサポート側に徹したことで、自分が試合に出る時は、ピッチに立てない選手の気持ちをよく考えるようになりました。

――そういう陰でのサポートがあったからこそ、平岡監督はクラブユース選手権の決勝などで天野選手を「ピッチに立たせたい」と思ったのでは?
天野 《良い行い》をしていれば、回り回って自分のところに返ってくるんだと思っています。元々、人のために何かをすることは好きで、例えば、誰かの誕生日を祝う時とか。でも、単純に尽くしたいって気持ちもありつつ、自分の行動によって「相手に好かれたい」とか「見返りが欲しい」という気持ちも少なからずあります。

――サッカーにも関連しそうですね。「これだけ努力しているのだから、報われてほしい」と。
天野 GKはとくにそうだと思います。練習から速いシュートを至近距離で受け止めて、「よっしゃ!もっと来い!」なんて言うような“変人”ばっかりですから(笑)

梅田透吾は「超えなきゃいけない壁」

――梅田選手のトップチーム昇格が決まった時の心境は?
天野 透吾がU-17ワールドカップの日本代表メンバーに選ばれた時もそうですが、ずっと一緒にやってきた“仲間”が代表やプロに入ることは、素直にうれしかったです。透吾のプレーのすごさを一番知っているのが僕なので、「なんで俺じゃないんだ」なんて思うことは一切なかったですし、むしろ「俺の仲間がプロになるんだぜ!」って誇りに思いました。

――天野選手は大学進学後、どのような日々を過ごしていますか?
天野 1年目から試合に出るつもりで同志社大に来たので、昨シーズンは不本意な1年でした。自分では、実力で先輩たちに負けてないと思っているけど、なかなか評価してもらえない。最初は納得できず、「なんでなん」って思ったりもしました。だけど、時間が経つにつれて、先輩たちがこれまでチームメイトやスタッフたちと時間を掛けて築いてきた信頼関係の強さに気づいた。自分はまだ1年生なのに、周りからの信頼を得る努力が足りていなかったんです。その事実を一度しっかり受け止められたのは、メンタル的に成長できた部分かなと思います。

ただ、僕が大学で過ごしている間も透吾はプロの世界でグングン伸びていて、先日のジュビロ磐田との練習試合(3月28日)には2番手として90分出場していました。今は透吾との差が開いてしまっていると思うので、早く実戦で経験を積みたいです。

――同志社大の練習環境はいかがですか?
天野 同志社大はGKコーチがいなくて、週に1回、元プロのGKがボランティアとして来てくださっています。アカデミー時代は掛川(誠)さん、羽田(敬介)さん、アダウトさんたちがいて、専門的な指導をしてくれたり、時には監督との間に入って意見を伝えてくれたりしていたので、エスパルスアカデミーの環境がいかに恵まれていたのかを感じているところです。

――日々の練習メニューは自分たちで考えているのですか?
天野 基本的には先輩たちが例年のメニューを参考にしながら考えてくれています。僕も、まだ下級生の立場ではありますが、自分でメニューを考えたり、ユースの頃にやっていたメニューを提案したりとチーム内に新しい風を吹かせていけたらと思っています。スタッフからは、「大学サッカーは、どこの大学でも《自分次第》だ」と言われ、確かにそうだなと。同志社大は今、関西学生リーグの1部にいて、過去にプロ選手を輩出していますし、自分次第でプロのスカウトの目に留まることも可能なはずです。

新型コロナウイルスの影響で前期リーグは中止となってしまいましたが、今シーズンのうちにスタメンの座を奪い、3、4年生になっても継続して試合に出続けたい。そのためには、もっとプレーを安定させ、長所を伸ばすことが必要です。スタッフからは、「全体的なレベルは高いけど、ストロングがあまり目立っていない。何か1つ、2つ光るものを身につけた方が、スカウトに注目されやすい」とアドバイスをいただきました。なので今は、透吾の長所である「ハイボールの処理」を僕も武器の一つにしようと、重点的に練習しています。

――今、思い描いている将来の夢を聞かせてください。
天野 以前は「プロになること」が夢でしたが、同期の争いに敗れ、一度挫折を味わった今の僕の目標は、「透吾に勝つこと」です。そのためにプロになりたい。また同じチームで一緒に練習したい気持ちもありますが、「透吾に勝つ」という意味では、透吾にはエスパルスでレギュラーとして活躍してもらい、僕は違うチームに入ってプロの舞台で対戦して勝ちたい。それがアイスタで実現したら、本当に幸せなことだと思います。

――最後に、天野選手にとって「梅田透吾」とは?
天野 『超えなきゃいけない壁』です。ユースを卒団して以来、「理想の選手は?」と聞かれるたびに、必ず「梅田透吾」と答えるようにしていて、日々の練習の中でも常に「透吾に勝つんだ!」ということを念頭に置きながら取り組んでいます。そこは今後もブレずに貫いていきたいです。

インタビュー・文=平柳麻衣
写真=本人提供

天野友心(あまの・ゆうしん)
2000年7月10日生まれ、静岡県出身/身長・182センチ、体重・75キロ/清水エスパルスジュニアユース→清水エスパルスユース→同志社大学/ポジション・GK