【インタビュー】流経大FW齊藤聖七:“一目惚れ”した清水ユースで主将として全国優勝、目標は「エスパルスでプロになる」

「とりあえず練習参加だけ」のつもりだった。しかし、齊藤聖七はそこで出会った人々とクラブ、そして静岡の街全体に惚れ込み、清水エスパルスユースへの加入を即決した。3年時にはキャプテンとして16年ぶり2度目のクラブユース選手権優勝に貢献。流通経済大学に進学し、2年生となった今も変わらぬエスパルス愛を胸に抱きながら、「出戻り」の目標に向かって日々励んでいる。(※取材はビデオ通話にて実施しました)

1泊2日の練習参加で先輩方が“神対応”

――静岡県外から清水エスパルスユースに加入したのは、大きな決断だったと思います。どのような経緯で?
齊藤 小学生の頃までは選抜に入ったこともなく全く無名の存在で、中学校に進学する時は、Jクラブなどのセレクションに全て落ちてしまったため、幼馴染と一緒にFCパルピターレという街クラブに入りました。それほど強いチームではなかったので、大会成績はせいぜい県大会や関東大会出場ぐらい。だから最初は、地元の公立高校に進学すればいいかな……ぐらいに考えていたのですが、進路を決める時、5つのJクラブと5つの高校からオファーをいただいたんです。

――争奪戦じゃないですか!
齊藤 僕も「まさか自分が」ってビックリしましたよ(笑)。それで、どこにしようかって親と相談していた時、パルピターレのオーナー兼監督を務めている栗田(大輔)さん(兼明治大学監督)のつながりで、エスパルスユースの練習に参加させてもらうことになったんです。行く前は、「とりあえず練習参加だけ」ってぐらいの気持ちだったんですけど、行ってみたらその日に合格を告げられ、僕自身もエスパルスユースに“一目惚れ”したので、その場で「行きます」って返事をしてしまいました。

――“一目惚れ”とは?
齊藤 エスパルスユースの他にも練習参加させていただいたJクラブがあったんですけど、怖かったんです、先輩たちが。まぁ、Jクラブの場合は、ジュニアユースからそのままユースに昇格した選手が大半を占めているので、外から来た練習生への対応なんて、それが普通だと思います。でも、エスパルスは違った。まず最初に平岡(宏章)監督(現トップチームコーチ)が話し掛けてくれて、一人の先輩が自分に付きっきりで練習メニューを教えてくれたり、二人組の練習を組んでくれたりとすごく優しく接してくれました。練習参加は1泊2日だったので寮に泊まったんですけど、そこでも先輩方が「ご飯行くぞ」とか「お風呂行こうぜ」って誘ってくれて……もう、“神対応”ですよね。寮の食事も美味しくて、お風呂も広いし、練習場は人工芝のグラウンドで、環境面も素晴らしい。それに、静岡の穏やかな土地柄にも惚れましたし、「サッカー王国で勝負したい」という気持ちもあったので、「これはエスパルスしかないな」と思いました。

――静岡に来る前から、「静岡=サッカー王国」という認識があったのですか?
齊藤 ありましたね。僕は地元が横浜なので、もともとは横浜F・マリノスが好きで応援していたんですけど、エスパルス戦がある時は「うわぁ、エスパかよ」って思ってましたから。2008年、09年とか、僕が小学校低学年ぐらいの時のエスパルスは、岡崎慎司選手(現ウエスカ)や本田拓也選手(現モンテディオ山形)が日本代表に入っていて、メチャメチャ強いイメージがありました。あとは、栗田さんが静岡出身なのでチームで静岡遠征に行くことも多くて、静岡の土地柄は何となく知っていました。

――高校から親元を離れることに対する不安はなかったですか?
齊藤 それは全然なくて、むしろ地元を離れたかったので、神奈川県内の高校はあまり視野に入れていませんでした。実家暮らしが嫌だったわけではないんですけど、僕は長男で、弟が二人いるし、早く自立しなきゃなと思っていて。

――エスパルスユースに入って通用する自信はありましたか?
齊藤 いやいやいや、自信なんて全然なかったです(苦笑)。ジュニアユースからユースに上がってくる選手は全国大会を経験している人ばかりですし、間違いなく自分が一番下だと思って、チャレンジャーの気持ちで行きました。でも、行くと決めたからにはトップチームに上がることを目標にしました。栗田さんからは、もしプロに上がれなかったとしても、(高円宮杯JFA U-18サッカー)プレミアリーグで戦っているチームに行けば、その先の選択肢が広がると言われ、とにかく3年間本気で頑張ろうと思いました。

みんなが泣いていたのを思い出すと、今でも胸が痛くなる

――エスパルスユースに所属していた3年間で、自分が成長する上でターニングポイントとなった出来事は?
齊藤 まずは、1年生の時のデビュー戦。クラブユース選手権東海予選のジュビロ磐田U-18戦(5-0で勝利)で、途中出場させてもらいました。自分としては、失うものも何もなかったので、とにかくガツガツいって、終了間際に1点取れたことが大きかった。県外から来たばかりで、まだサポーターの方々にも覚えられてなかったと思うんですけど、そのゴールで少しは知ってもらえたのかなと思います。デビュー戦で、しかも“静岡ダービー”で決められたこともうれしくて、起用してくれた平岡さんに感謝していますし、あれが自分のユース生活の第一歩になったと思っています。

でも一番、「成長しなきゃ」と思ったのは、2年生の時のプレミアリーグ最終節、柏レイソルU-18戦(1-2で敗戦)です。(平墳)迅くんがケガをしていて、ずっとエースがいない状態で優勝争いをしていたなかで迎えた最終節。スタメンで出場させてもらい、自分が一番、決定機が多かったのに決められなくて……FWとしての力不足を感じましたし、自分の弱さが出てしまったなと。自分が決めていれば、勝ってチャンピオンシップへの出場権を獲得できたはず。試合が終わった瞬間、滝(裕太)くんや迅くんとかみんなが泣いていたのを思い出すと、今でも胸が痛くなります。

――その1節前の青森山田高校戦(4-4で引き分け)も含め、ある意味、“勝者のメンタリティ”みたいなものが足りなかったと思いますか?
齊藤 そうだと思います。青森山田に勝っていれば最終節は得失点差でかなり優位な状況だったのに、後半アディショナルタイムに追いつかれてしまって……。ずっと1位を走っていたのに、FC東京U-18と青森山田もなかなか負けないから、三つ巴の状態が続いていて、1試合1試合がまるで決勝戦みたいでした。最終節は、J-STEPが今まで見たことないぐらい多くの観客で埋まっていて、メディアの数もすごくて、プレッシャーが尋常じゃなかった。そこで勝ちきれなかったのは、どこかにまだ隙があったのかなと思います。ほんと、あれは忘れられないし、悔しいなぁ。

――ただ、その後の振る舞いなどを見て、平岡監督は齊藤選手を翌シーズンのキャプテンに選んだそうですね。
齊藤 先輩たちに申し訳ない気持ちはありましたけど、自分にはまだあと1年残っていたので、悔しい気持ちと同時に、来年のことしか考えていない自分がいました。だから、試合に出させてもらっていた立場として、後輩たちに雰囲気とかを伝えなきゃと思って。例えば、練習で走る時に先頭を走ったり、声出しとか率先していろいろなことをやりました。今となっては、あの柏戦があったからこそ、3年生になって優勝(クラブユース選手権大会)できたのかなと思います。

――自分だからこそチームに貢献できたと思う部分はありますか?
齊藤 僕はそんなにキャプテンシーがあるタイプではないので、声でまとめる役割は監物(拓歩/現早稲田大)に任せて、自分はプレーで信頼を得られるように意識していました。僕の考えとして、キャプテンが嫌われてるチームってそんなに強くないと思うので、とにかく前線で走りまくって、みんなのお手本になるような振る舞いをしようと心掛けて。

――キャプテンとして参考にした人はいますか?
齊藤 1学年上の滝くんも、「マジで俺かよ」って言ってるぐらい、全然キャプテンキャラじゃないキャプテンでしたね(笑)。でも、滝くんがすごいのは、プレーで絶対的な存在感を放っていたところ。誰も止められないような“半端ない”プレーばかり見せていて、「この人、ヤバい」って周りを納得させることができるキャプテンでした。僕も滝くんみたいなキャプテン像を目指しつつ、もう一人参考にしていたのは、2学年上の平松昇くん(現立正大)。昇くんは、試合出場こそあまり多くなかったものの、常にチームのことを優先して行動していて、サッカーに対してすごくストイックな姿勢はキャプテン像として勉強になりました。でも、僕の代はほんとにみんな仲が良くて、副キャプテンの監物と佐野陸人(現法政大)をはじめ、みんなが自分を支えてくれていたので、僕がキャプテンとして苦労したことは全然なかったです。

――自分がキャプテンを務めたチームでクラブユース選手権優勝、Jユースカップ準優勝、プレミアリーグ3位の好成績を残したことは、自信になりましたか?
齊藤 メチャメチャうれしかったです。シーズンが始まる前から、平岡さんには「俺が指導してきた中で一番弱いチーム」だと言われ続け、実際にリーグ戦は2連敗から始まって、「このまま結果が出なかったら、“史上最弱”の代のキャプテンとして歴史に名を残すんだな……」って落ち込んだこともあります(苦笑)。だけど、平岡さんがそうやって発破をかけてくれたことで、試合の帰りのバスの中で同期の選手たちと「マジでギャフンと言わせてやろうぜ!」って話したりして反骨心に火がついたし、チームの団結力が上がったのかなと思います。

プロのキャリアはエスパルスでスタートしたい

――残念ながらユースからのトップチーム昇格は果たせませんでした。どんなところが足りなかったと思っていますか?
齊藤 “上手いだけ”の選手はいっぱいいると思っていて、自分は“上手いだけ”で終わってしまった。例えば、(川本)梨誉だったら縦への推進力があるように、何か突出した武器がなければプロでは通用しないと思います。そこは自分に足りないところだと理解しているので、それを改善するために流経大を進学先に選びました。

――エスパルスユースから流経大に進学した例は珍しいのでは?
齊藤 たぶん自分が初めてです。流経大か、栗田さんが監督を務めている明治大かで迷っていて、決め手の一つは、流経大なら特待生で入れるという経済的な理由。あとは、流経大っていうと赤くて、熱くて、戦う集団っていうイメージがあって。200人以上いる部員との競争に勝って試合に出続けてプロになれたら、自分も“上手いだけ”の選手じゃなくて、“上手くて怖い”選手になれるんじゃないかと思って決めました。

――大学1年目を終えて、どんなことを感じましたか?
齊藤 200人以上いる部員の中で、トップチームに入れるのは30人くらい。常に練習から100パーセントの力を出さないと残れないですし、試合で良いプレーができなければすぐにベンチやベンチ外になってしまうので、競争環境はすごいです。4年間トップチームに入り続けることは最低限の目標で、その中で常にトップに立ってチームを引っ張っていきたいというプライドは持っています。

――今年2月にはヨーロッパへ短期留学しましたね。
齊藤 流経大のスタッフのつながりで、クロアチアの強豪ディナモ・ザグレブへ約3週間、行かせていただきました。なかなか簡単にできる経験ではないと思いますし、サッカー部の環境面やサポートは本当に素晴らしいです。

――大学入学前と入学後でプレースタイルに変化はありましたか?
齊藤 エスパルスユースでは、まずブロックをちゃんと作る守備の仕方が基本でしたけど、流経大ではプレス、プレス、プレスの繰り返しなので、そこはメチャメチャ指摘されましたし、体力もすごく必要とされます。最初は少し戸惑いもありましたけど、おかげで守備に対する意識は高まったし、体を張ったり、ボールに食らいつくという根本的な姿勢が変わりました。ただ、1年目は全然、自分で納得のいくシーズンではなかったので、もっともっと努力していかないとプロにはなれないと思っています。

――残りの大学生活をどのように過ごし、どんな目標を達成したいですか?
齊藤 プロになるためには、2年目の今年が勝負だと思っていて、今、新型コロナウイルスの影響で試合ができないのは残念ですけど、いろいろな人の話を聞きながら、一日一日の過ごし方の意識を変えています。理想は、今年アピールして、3年生で練習参加に行って、4年生のシーズンが始まる頃には加入を内定させる。簡単なことじゃないのは分かっていますが、やっぱり西澤健太さんのように“出戻り”するのが目標です。

――トップチームに昇格できなかった反骨心から、別のチームでプロになって見返したい、と言う人もたまにいます。
齊藤 僕も昇格できないと決まった時は、正直、そう思いました。だけど、やっぱり自分が育った場所はエスパルスだし、今の自分があるのは間違いなくエスパルスのおかげ。だから、できることならプロのキャリアはエスパルスでスタートしたい。もし、それが叶わなかったとしても、回り回ってキャリアの中で一度でも、エスパルスのトップチームでプレーできたらいいなと思っています。

――最後に、エスパルスのファン・サポーターへメッセージをお願いします。
齊藤 エスパルスサポーターの応援は情熱的で、僕たちアカデミーの選手にとってすごく支えになっていました。身内でもない大人があんなに声を枯らして応援してくれるって、ほんとに心に響くんです。そのおかげで、いつもすごくモチベーションが上がったので、感謝しています。今の後輩たちのためにも、その熱い応援を続けてほしいというのが僕からのお願いです。そして僕が卒団する時、たくさんの方が「また戻ってこいよ」と声を掛けてくれたことが、今でも僕の励みになっています。もし、またエスパルスに戻ることができた時には、温かく迎えてもらえたらうれしいです。

インタビュー・文=平柳麻衣
写真=本人提供、平柳麻衣

齊藤聖七(さいとう・せな)
2000年11月21日生まれ、神奈川県出身/身長・171センチ、体重・63キロ/FCパルピターレ→清水エスパルスユース→流通経済大学/ポジション・FW